薬物依存症からの回復に必要なものは「つながり」
誤解されている病気
2016年6月、俳優の高知東生さんが覚せい剤取締法違反で逮捕されました。その際、高知さんが、逮捕にやってきた麻薬取締官に対していった、「逮捕に来てくださって、ありがとうございます」という発言が、マスメディアのあいだでちょっとした話題になりました。みなさまはこの一件を覚えているのでしょうか?
私はこの一件を生涯忘れることはないでしょう。というのも、この一件に関して、ワイドショー番組でご意見番的なタレントがしたコメントの言葉――「ありがとうなんて軽いね。反省が足りない。あれじゃ、絶対に更生できないよ」――に、心底腹が立ったからです。
これまで私は、診察室のなかで何人もの覚せい剤依存症患者さんが、「逮捕された瞬間、思わず『ありがとう』っていってしまった」と苦笑まじりに語るのを聞いてきました。そのたびに理由を尋ねるようにしていましたが、どの患者さんも例外なくこう答えていました。
「これでやっとクスリがやめられる、もう家族に嘘の上塗りをしないでいい。そう思ったら、何だかホッとしてしまって」
要するに、依存症に悩む人にとってあれほど正直な言葉はないのです。逮捕された後、取り調べが始まれば、何とかして刑務所行きだけは避けたいと願い、多くの人が必死に嘘をつくものです。10年以上前から薬物を使っていたのに「1年前から始めた」と供述し、毎日のように使っていたのに「月に1回あるかないか」と供述します。それなのに、逮捕された瞬間だけは、ついうっかり正直な気持ちを吐露してしまうのです。
その意味では、あの「ありがとう」という言葉が意味するのは、その人がそれだけ悩んでいた、苦しんでいた、という事実です。そして、その言葉は決して「軽い」ものなどではなく、「重い」ものなのです。ですから、例の番組でご意見番的なタレントがいっていた、「軽い」「反省が足りない」などという批判は、見当違いもはなはだしいものといえるでしょう。
これはほんの一例にすぎません。
つくづく薬物依存症を抱えている人たちは誤解されているなと思います。
たとえば、もしも薬物依存症の人が、「(クスリを)やりたい」「やってしまった」「やめられない」と告白したら、世間一般の人たちはどう反応するでしょうか? おそらくは、多くの人の不況と怒りを買い、コミュニティから排除され、孤立を余儀なくされてしまうでしょう。
でも、依存症の支援者だったら、「回復の第一歩」として手放しで褒めるでしょう。というのも、薬物依存症の人が「やりたい」とわざわざいうのは、「やりたいけど、何とかしたいと思っている」からで、以前ならば、彼らは黙ってこっそりと薬物を使っていたはずです。「やってしまった」というのは、「うっかり失敗してしまったが、このままじゃいけない。自分は変わらなきゃいけない」という気持ちの表れです。そして、「やめられない」というのは、「もう自分の意志の力ではどうにもならない、助けてほしい」という意味なのです。
なぜ人は依存症になるのか
薬物依存症からの回復について考える前に、少し遠回りして、回復とは反対方向の問いから考えてみたいと思います。
人はなぜ薬物依存症になるのでしょうか?
もしもあなたが多少とも見識のある方ならば、こう答えるはずです。「依存症の原因は、性格や意志の弱さなんかじゃない。薬物に手を出したからだ。その結果、薬物の強烈な快感が脳に刻印付けされてしまい、脳が支配されてしまっているからだ」と。
なるほど、その通りです。確かに依存症になりやすい性格傾向など存在しませんし、薬物を使ったことがない人はどうあがいても薬物依存症にはなれません。そして、ひとたび依存症になった脳の欲求に対しては、人の意志などあまりに無力なのも事実です。なにしろ、依存症になった脳は、隙あらばその人の耳元で甘言を弄し、誘惑します。「たまの1回なら大丈夫」「これが最後の一発」「バレなきゃ平気」……。これに打ち克つのは容易ではありません。
しかし、さきほどの回答はまだ完璧とはいえません。なぜなら、薬物に手を出しても、依存症になる人とならない人がいる、という事実を説明できていないからです。
たとえば、アルコールはれっきとした依存性薬物ですが、それでも依存症になるのは習慣的飲酒者のごく一部です。また、睡眠薬や鎮痛薬、あるいは市販のかぜ薬でも依存症になる人がいますが、それも使用経験者の一部にかぎられます。外科手術を受けた後の鎮痛にはきわめて強力な麻薬が使用されますが、手術を受けた経験のある人のうち、術後に薬物依存症になる人などめったにいません。
意外に思うかもしれませんが、覚せい剤の場合も同じなのです。覚せい剤依存症患者の大半は、最初のうちは仲間と一緒に覚せい剤を使っていたのに、気づくとひとり取り残されてしまった人たちです。彼らはよくこう愚痴ります。「昔、一緒にクスリをやっていた奴は、今じゃみんな家庭を持ってちゃんと家族を養っている。いまだクスリから抜け出せないのは自分だけ。どうして自分はダメなのか……」と。
依存症になる人とならない人、その違いはどこにあるのでしょうか?
「ネズミの楽園」が教えてくれること
興味深い実験があります。1980年にサイモン・フレーザー大学のブルース・アレグサンダー博士らが行った、「ネズミの楽園Rat park」と呼ばれる有名な実験です。
この実験では、ネズミは、居住環境の異なる二つのグループに分けられました。一方のネズミは、一匹ずつ金網できた檻の中に(「植民地ネズミ」)、そしてもう一方のネズミは、広々とした場所に雌雄十数匹が一緒に入れられました(「楽園ネズミ」)。
ちなみに、楽園ネズミに提供された広場は、まさに「ネズミの楽園」でした。床には、巣を作りやすいように常緑樹のウッドチップが敷き詰められ、いつでも好きなときに食べられるように十分なエサも用意されました。また、所々にネズミが隠れたり遊んだりできる箱や缶が置かれ、ネズミ同士の接触や交流を妨げない環境になっていました。
アレクサンダー博士らは、この両方のネズミに対し、普通の水とモルヒネ入りの水を用意して与え、57日間観察したわけです。その結果は実に興味深いものでした。植民地ネズミの多くが、孤独な檻の中で頻繁にモルヒネ水を摂取しては、日がな一日酩酊していたのに対し、楽園ネズミの多くは、他のネズミと遊んだり、じゃれ合ったり、交尾したりして、なかなかモルヒネ水を飲もうとしなかったのです。
この実験結果こそが、「なぜ一部の人だけが薬物依存症になるのか」という問いの答えではないでしょうか? それは、「つながり」を失い、孤立した状態にある人、そして、自分が置かれた状況を「狭苦しい檻」と感じている人の方が、いまいる場所を「楽園」と感じている人よりも薬物依存症になりやすいということです。もっと簡単にいえば、いま現在しんどい状況にある人ほど依存症になりやすいということです。
もちろん、「人間をネズミと一緒にするな」という反論もあるでしょう。しかし、国家レベルで見れば、薬物汚染が深刻な国は、きまって貧困や経済格差に喘ぐ、「暮らしにくい国」なのです。同じことが、個人レベルでも認められたとしても不思議ではない――私はそう考えています。
安心して「クスリがやめられない」といえる社会を目指して
「ネズミの楽園」実験には続きがあります。
アレクサンダー博士らは、57日間、檻の中でモルヒネ水ばかりを飲んですっかり薬物依存症になってしまった植民地ネズミを、一匹だけ檻から取り出して、今度は、楽園ネズミのいる広場へと移したのです。すると、少しずつではありますが、彼らは、広場の中で楽園ネズミたちとじゃれ合い、遊び、交流するようになりました。
それだけではありません。驚いたことに、檻の中ですっかりモルヒネ漬けになっていた彼らが、けいれんなど、モルヒネの離脱症状を呈しながらも、いつしかモルヒネ水ではなく、普通の水を飲むようになったのです。
この実験結果が暗示しているものは、一体何なのでしょうか?
それは、檻のなかに閉じ込めてひとりぼっちにさせておくよりも、仲間との「つながり」のなか、そして、社会との「つながり」のなかに置く方が、薬物依存症から回復しやすいということではないでしょうか。
それだけではありません。「クスリをやりたい」「やってしまった」「やめられない」と発言しても、排除もされなければ孤立を強いられることもない。それどころか、その発言を回復の第一歩と見なされて、たくさんの仲間とつながることができる。そんな社会があれば、もっと多くの人たちが薬物依存症から回復できるでしょう。
最後にもう一度、声を大にしていっておきます。
いまわが国に必要なのは、安心して「クスリがやめられない」といえる社会なのです。